会社を「卒業」するって表現は好きじゃない

最近、務めている会社を退職する時のあいさつとして、こんな表現をするのが流行っているそうです。

この度、この会社を「卒業させていただくことになりました」

「退職」や「転職」という言葉よりも前向きに聞こえるというのがその理由とのことですが、個人的にはあまり好きな表現ではないです。

今回はその理由について語ります。

いい加減ゲームを卒業したら?

あなたが子供のころ、ついつい好きなゲームをやり過ぎて、それを見かねた両親から「いい加減ゲームを卒業したら?」という言葉をかけられたことはありませんか? この言葉の真意とは、つまり「ゲームは未熟な人間のやるものであり、立派な大人はそんなものに熱中することはない」という意味合いを含んでいます。

僕はゲーム以外にも「そろそろ漫画家志望を卒業したら?」と、親に言われたこともあります。僕は子供のころに漫画家を目指してひたすら漫画を描いており、そんなことにうつつを抜かす僕を諫める意味でこう言われたのです。

「卒業」って上から目線

先述した言葉、とても上から目線と思いませんか?

「いい加減ゲームを卒業したら?」という言葉。大人だって普通にゲームをやりますし、そもそもこの言葉ってゲームの製作者に対して無礼千万です。クリエイターたちが丹精込めて制作したゲームの数々は、果たして「卒業される」ものなのでしょうか。

ゲームとはエンターテイメント商品であり、それをプレイすることで楽しい時間を過ごしたり、一生忘れられないような感動を体験することだってあります。

別にここでゲームの素晴らしさを熱弁するつもりはありませんし、全ての人類がゲームをプレイするべきだと言うつもりもありません。映画や小説と同じ数ある趣味の一つに過ぎないと思います。

例えばある人がゲームよりも高い価値を見出した趣味を見つけてゲームを辞めたとしても、それは文字通り「ゲームを辞めた」だけであり、「ゲームを卒業した」という表現はそぐわないと僕は思います。

「そろそろ漫画家志望を卒業したら?」という言葉はもっと不可解です。

漫画家志望は「卒業」するものではありません。漫画家になるか、あるいは諦めるか、それだけです。「卒業」という言葉には、明らかにその対象に対する侮蔑の意味合いが込められていて、そんな言葉を使う人間には吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えます(「学校を卒業する」などの正しい場面で使う場合を除く)。

ただその人が「個人的に」価値を見出さないものに対して「卒業」などと言う。

それはさながら自分の価値観こそが世界標準であると思い込んでいるような傲慢さを感じるのです。

退職の挨拶にはまったく相応しくない

さて、冒頭の会社の例に戻りますが、例えばあなたが務めている会社の社員が退職する時の挨拶のメールで「この度、この会社を卒業させていただくことになりました」という文面が綴られていたら、あなたはどう思いますか?

僕だったら自分が所属している会社が侮辱されたみたいで「カッチーン!」ときますし、退職の挨拶でそんな言葉を使うような人間の送別会には絶対に出ないでしょう。

人々はなぜふさわしくな場面で「卒業」という言葉を使うのか。

「ゲームを卒業したら?」にしろ、「漫画家志望を卒業したら?」にしろ、ただ両親が子供の成長に寄与しない(と勝手に判断した)物事を辞めさせるために考えられた表現の一つなのでしょう。

「ゲームを辞めなさい!」では言う事を聞かない子供でも、「ゲームを卒業したら?」という、暗に「ゲームは幼稚な子供がやるもの」という意味を仄めかすような表現を使えば、「僕はもう子供じゃない!」と少し背伸びをしたい年頃の子供には有効かもしれません。個人的にはまったく健全なやり方とは思えませんが……。

こんな言葉を使うくらいなら、はっきりと「ゲームばかりじゃなくて、学校の勉強やスポーツもバランス良くやった方が将来役に立つよ」と言ってほしい。その方向で子供を納得させられないのであれば、親の怠慢とさえ思います。

まとめ

結論になりますが、学校関連以外で「卒業」という言葉を使うとほとんどの場合は良い印象を与えないと僕は感じました。

僕が将来今いる会社から別の会社に転職する時は、「卒業のご挨拶」ではなく、正しく「退職のご挨拶」をしたいと思います。

以上です。